鬱病生活記

 表紙
 目次
 はじめに
 第一章

 第二章

 第三章

 第四章

 第五章

 第六章

第二章 精神病院での入院暮らし

1.精神病院生活記

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4/18(土) 8:20頃

【不健全な怒りの矛先】

朝食前、『ひろさん』と“愛おしくとも許せいない男”について話し合った。

彼女は、父が許せないらしい。

金に汚いその男は、その男の父、つまり『ひろさん』のお祖父さんの死に際、枕元で金の話を持ち出したそうだ。お祖父さんの事が好きだった彼女は、腸の煮えくり返る思いであったと言う。

人の死に際で金の話。その男には息子としての都合もあるだろうし、遺産について白黒つける意味では確かに合理的である。しかし、そこに人としての感情は見えない。

どちらが正しいかなど決める訳では無いが、今の私にとって、彼女のその時の気持ち、許せないと考えてしまう思考、とても共感できる。

だからと言って、その怒りをその場で直接相手にぶつけても問題は解決できないだろう。寧ろ、火に油を注ぐだけかもしれない。その事は、彼女も私も理解している。そして、自分の怒りを抑えようと闘っている。

物理的に相手と戦うのでは無く、自分自身と葛藤し、勝利を目指して。



4/18(土) 11:00頃

【続・蟻の動きも右往左往】

ダイニングルームの隅にあるタバコ部屋でタバコを吹かしていると、急に外へ出たくなり、手続きを取って、外へ出た。ちっとも読み進まない『こころ』に目を通そうと考えていたので、外出は控えようと予定していたのだが。

運動がてら、院内にある坂道を2往復して、軽くストレッチをした。
一通りの体操を終え、お気に入りの笹で覆われた風通しの良い喫煙所に移動し、腰を下ろした。
タバコに火をつけ、不図地面に目を移すと、タイル張りの床に蟻が1匹、ピクリとも動かずに横たわっていた。
丁度、昨日うろちょろしている蟻を見かけた辺りだ。大きさも昨日の彼と同じくらい。
何と無しに、拾い上げ指の上に乗せてみた。五体は満足。足を下にし、その恰好をさせると、今にでも動きだしそうだった。

二度と動き出す事の無い彼を、暫らく眺めていた。
その後、「何れは踏みつけられるか掃き集められるこの場所よりは。」と思い、近くの花壇の土の上へ、ポイと投げた。

私は、静かに、そして、今日の天気と同じ様な雲ひとつ無い晴れた気分で、生死を感じた。



4/18(土) 18:00頃

【看護師さん、もう少し気を使って】

今日の午後は、両親が面会に来た。
“生き辛さ”があるか否かだの、人生など予定通りにいかないものだなど、大して私には刺激の無い談義を終えると、既に時計は16:00を指していた。

その後、ベットの上で『こころ』を読みつつ、うつらうつらしつつ、過ごした。
非常に読書が遅く、大してそれが趣味で無い私は、前回の続きから10ページ程度読み進むと、飽きてしまったと見え、タバコが吸いたくなった。
深いため息と共に重い体をベットから起こし、時計の見える廊下へ出た。
時刻は既に17:30。18:00の夕食まで一服するにはちょうど良い時間だ。

タバコ部屋には誰も居なかった。
タバコに火をつけ、足を伸ばしゆったりとしていると、この寛ぎの時間を中止させるべく、一人の看護師がこちらに向かってやって来た。私に用があるらしい。
看護師がタバコ部屋のドアを開けると、ダイニングルームのそこかしこに聞こえる甲高い声で言った。
「明日の外泊時に持っていく薬の事だけどさ、・・・。」
・・・私は、愕然としながらも、看護師との遣り取りを終えた。

私は、特に仲の良い『ひろさん』を除き、他の患者の誰にも外泊の事を告げていなかった。
外泊が退院間近の行事である事は、ここの患者の誰もが知っていた。そして、この病棟の患者達は、そう簡単に外泊まで辿り着けない。そんな事を認知していた私は、あっさり外泊出来る事になった自身の事を、皆にどの様に告げようか躊躇した揚句、外泊当日である明日の朝に自ら告げて回ろうと考えていたのだった。(尤も、『ひろさん』が皆に話してしまえば、それまでなのだが。)

よって、この私の企みは、一人の看護師の行動によって、一蹴されてしまった。私の「自ら告げて回ろう。」と言う妙な正義感を持った計画は失敗に終わった。
ダイニングルームに居る多くの者が私の外泊の事実を知ってしまっただろう。「あいつは外泊の事を隠していた。」そんな風に思われる事を想像すると、少なからずストレスを感じてしまう。
そんな事誰も思ってないかもしれないし、例えそう思われたにせよ、何も気負う必要は無い。“普通”は、この様に捉えられるのだろう。
そう捉える事が出来たら、もっと“生き安い”のだろう。
しかし、私の心は、頭で考えた通りには制御できない。
尤も、心など誰もが制御できない代物なのかもしれない。だから、心なのだろう。
もし、頭で考え納得のいく結論が出た時、常に心もそれに準じて平穏になる様なら、それは既に人では無い。人を超越した仙人と呼ばれるような存在か、論理的に動く機械と同等の存在になっているのだ。      



4/18(土) 19:40頃

【我々は運転ミスで事故った者達】

そうか、ここには心の運転で事故を起こした者達が収容されているのだ。
運転技術が悪いのか、乗っていた車の操作が難しすぎたのか。
そんな事を考えながらタバコ部屋を後にすると、落ち込み気味の私を見つけ、『ひろさん』が気遣ってくれた。
優しい言葉をかけてくれた。
とても澄んだ目で。


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