第四章 社会復帰への階段
1.ニート脱却へ
10月12日(月) 1:00頃
【やはり私は病気では無い】
私は病気では無い。
そして、「精神病」とレッテルを貼られている多くのものもそうであろう。
これは、人間の当然の反応であり、単なるパーソナリティだ。
少なくても私が生きているこの環境では、「社会的に無益なもの」と判断されるものが「精神病」とレッテルを貼られるケースが多い。
“個性”と言う言葉が強調されるようになったのは、いつの頃からであったろうか。
確か、私が大学に在籍していた頃、そんな事が声高らかに叫ばれていたような気がする。
特に、教育現場では、「各々の“個性”を磨くようにする」と言うベクトルに向いていたような記憶がある。
私より、一回り下の世代。およそ10歳ほど若い世代は、そのような学校教育や社会ムードで10代を過ごしたのではないだろうか。
何とも不遇な環境であると悲観する。
彼らは、これまで学校で教わった、社会の、民衆の単なるムードで、誤った教育を受けているに近い。
勿論、そんな中でも独自に真実を見極める者は居る。
しかし、大半は、社会に出てから苦労するだろう。
今まで教わった“個性”と言うものに、今一度対面し、苦悩する日が訪れるであろう。
そんな時、これまた「精神病」等とレッテルを貼られる者も増えてくるだろう。
医療業界や政治家・官僚達は、何だかんだで税金をそれらの対策に使う振りをして、思惑通り金銭的利益を手にするかもしれない。
また、本当に、真面目に医療に取り組む者は、大きなジレンマに陥るだろう。
(既に、真面目に医療や介護に携わる人は、苦悩しているであろう。)
「自分の個性を発揮する」なんて言えば、さぞかし響きが良く、悦に浸る事もあるだろう。
しかし、それがまやかしなのである。
人間は、自然の極一部でしかない事は、前述していると思う。
「個性主張主義」は、この事を忘れている。
今叫ばれている“個性”など、単なる誇張で、自身を見つめ受け入れる事とは違う。
自分自身を“個性”というブランドで着飾って、誤魔化しているだけである。
寧ろ、そのような状態に陥っているとすれば、そちらの方が病的だ。
精神的に未熟で、ピーターパン症候群的要素を内包している。
私の今の立場は、こんな社会の中でマイノリティー(少数派)なのだろう。
だから、マジョリティー(多数派)の理屈で納まるように「うつ病」とレッテルを貼られているに過ぎない。
私は芸術を愛している。文化を愛している。
今、現在、芸術家的肩書きを持っている者で、本当に芸術家である人間はどれだけ居るであろうか。自称で、芸術家といっている人の中にも、本物が埋もれている可能性だってあろう。
何せ、私の存在する環境では、「プロ=経済的にその職業で生計を立てている者」、「アマチュア=経済的にその職業で生計を立てられていない者」と定義付けられているからである。
しかし、芸術、アートといった方が的確であろうか、この世界では「プロ」と「アマチュア」の定義は、社会的に認められるとか、経済的に自立できているとかは関係ない。
それを私は、今日教えてもらい、気付かされた。
では、アートの世界の「プロ」と「アマチュア」はどう定義するのかというと、「神」、或いは、「自然」、或いは、「森羅万象」そう言った物の意思や現象を表現できるのが「プロ」であり、単なる自我を表現するのが「アマチュア」なのだ。また、特殊なパターンで作品を仕上げると言ったようなものは、そこに意味が無ければ、単なるパフォーマンスと言うカテゴリーに入る。
例えば、世に名高い「ゴッホ」について言えば、彼は、「生きている間、経済的に成功していない」という定義で見てしまうと、生前は単なるアマチュア画家だったと言える。
だが、今はプロ中のプロとして評価されている。
それは、彼の作品が、自然の一部にあたる人の本質、また、自然の中にある本質を、作品に投影しているからである。
(勿論、死後評価されたのだから、その点で「評価された=プロ」と言う言い方もあるだろうが、それはナンセンスである。)
だから、殊更“個性”を謡った教育を受けた者達が可愛そうで仕方が無い。
人間など、単なる小さな小さな自然の一部。
さらにその中の人間同士の“個性”の違いなど、有って無い様な物である。
それを無視して、幾ら“自己表現”をしたところで、そんなものは戯言で、陳腐である。
尤も、今のエンターテイメント敵要素が重要視される社会では、一時の富や名声を得る事が出来るかもしれない。しかし、それは、後の己の苦悩に繋がるだけであろう。
何せ、本物を表現していないのに「プロ」として評価され、一時の「名誉」や「賞賛」を受けるのだから。
一度手にしたものを手放す、それが離れていく、その時、本人はそれに落胆と惨めさと戸惑いを憶え、行き場を見失うだろう。
そして、情緒不安定になり、「精神病」とレッテルを貼られる場合も・・・。
一度上った山を下るのは勇気がいることだ。
しかし、その山を上ってみて、その山の頂に自分の求めていた物が無いと気付いた時、その山を下り、新たな山を一から登りなおさなければならない。
とても勇気がいること。そして、労力の伴うもの。
しかも、新たに目標にした山だって、登ってみなければ自分が求めていたものかどうかは分からない。
だが、その登山と下山の繰り返しは、決して無駄なものではない。
寧ろ、それだけの経験を得る事によって、真実に行き当たる可能性が大きくなるのだ。
私は、単にそこら辺が今まで虚ろで、確信を持てていなかった。
だから、行き先を見失い「鬱病」のレッテルを張られて、ウロウロしているだけなのだ。
これは、誰が陥ってもおかしくない状況で、とても”病気”と言い表されるものでは無いと思う。
言うとすれば、“人生に悩んでいる者”、“行き場を見失っている者”という方が的確だ。
人間、生きていればこの様な出来事は、幾度か訪れるものだ。
それを乗り越えながら、寿命をを迎える事が、生きる事の一つの意味である。
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