第三章 鬱病者としての日々
2.調停待ちの日記
7月31日(金) 23:30頃
【中身(本質)が不明でも扱いを知れば、人は安易に使用する】
これを読んで下さっている大変奇妙な方がおられたら、その貴方に一つ問いたい。
何故、貴方は、パソコンの画面を通して、私が書いているこの様な文章を読むことが出来るのでしょうか。
“何故”との言い方は、意味の幅が広すぎて、私の問いたい事が伝わらないと思うので、“どの様な仕組みで”と言い替えた方が良いだろう。
貴方が今使っているパソコンは、どの様な仕組みで動いていますか?
私が作ったこの様なサイトを見る為に、どの様な人達が集まる組織があり、どの様な機械がどの様な仕組みで動き、何処をケーブルや電波で繋ぎネットワークが成立しているのでしょうか?
私は、パソコンのソフトウェアを作成する仕事に就いていた。だから、この質問の答えの一部は知っている。
そう、一部しか知らない。取り合えずプロフェッショナルとしてコンピュータ関係に携わっていた私ですら、ほんの少しの部分しか知らない。
でも、この様に、自らメッセージを広める手段があり、それをこうして利用する事が出来る。
仕組みの分からない物を利用する事を、私は恐いと考えていた。何故か分からないのにボタンを押せばミサイルが飛ぶ。そんな感覚があり、少し恐れを抱いていたのだ。
「知りたい。」という欲求から、人間は何かを考え、何かを発見する事もある。だから、この様な知識欲は、例え恐くとも、決して悪い物では無いだろう。歴史的科学者達も、「知りたい。」と言う事から、様々な事を解明して、或は、様々な物を発明して来たのだから。
しかし、この世で人間が知り得ている事など、私がコンピュータのちょっとした仕組みを知っているくらいの、ごく僅かな範囲でしか無かろう。
まず、自然について、人間が知り得ている事などごく僅かだ。他の物体や生命が知り得ている事を、人間が感じれる事も無いだろう。
そして、既に現代社会は、人間が作り上げた物の仕組みさえ分からなくなっている。
自分達の考えで作った、経済の仕組みなども、自分達でコントロールできる代物ですらない化け物になってしまった事は、昨今の金融恐慌で証明されている。
だが、
人は慣れる。例えそれがどんな仕組みであろうと、使い方が分かれば、それを利用する。どんなものだか分らない恐怖を克服し、使い慣れれば、それを不思議とすら考えなくなる。
要は、その物との付き合いだ。長い間傍にあり、または、「それは恐くない物だよ。」と他から教えられ、自分に危害を加えない物だと意識すれば、恐怖感は無くなる。更に、それが自分に取って利用価値のある物だと分かれば、利用する。
非常に単純な事だ。
さて、『長い間傍にあり危害が加えられない』と自分で体験的に解釈していても、たまたま、自分が居る時に危害を加える動きをしなかっただけで、実は非常に危険な物かもしれない。何時自然災害が、自分の身に降りかかるかなど多くの人は誰も考えないだろう。また、『それは恐くないよ』と教えられた情報が誤りで、非常に危険な物なのかもしれないなど、疑ったりする者は極僅かだ。
そう考え「あんた等もっと勉強しなさい。」と、自分に言いたくなる。
いやはや、考えれば考える程、私は底なしの沼に引き込まれてしまう様である。
何事も、考えずに居られれば楽なのだろうが・・・。
<前へ> P.86
<次へ>