鬱病生活記

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 目次
 はじめに
 第一章

 第二章

 第三章

 第四章

 第五章

 第六章

第四章 社会復帰への階段

1.ニート脱却へ

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10月9日(金) 13:00頃

【カウンセリングの手法】

私が受ける事となったカウンセリングは、「精神分析的心理療法」と言うもので、「自由連想」と呼ばれる手法が使われるとの事。

私はこの事をカウンセラーから聞きだした後、早速、そのカウンセリングは始まった。

しかし、「自由に何か話して下さい。」と言った後、カウンセラーは私にそれ以上の言葉を掛けない。
数秒だったか、数十秒だったのか、一時の沈黙を経て、何を話して良い物か戸惑った挙句、私は、「今週末は連休ですね、月曜日が祝日だから。あぁ、でも病院とかは祝日とか関係ないのかな?」、と言って、カウンセラーの方へ顔を向けた。
すると、カウンセラーは、「はぁ」だか、「ふぅ〜ん」だか、全く相手にしないような生返事を返してきた。

「成る程、これが自由連想のやり方なのですね。」
私は、カウンセラーの態度を観察してこう言い放つと同時に、このカウンセリング方法の要領を得た。

要は、私が一方的にしゃべり、その中でカウンセラーが想像した事があれば、合間を見てそれを口にする。そして、それに対して私が答える・・・。
そんな事の繰り返しで、「己を見つめろ」と言う技法だと推測する。
冠に「精神分析的」とあるので、ある程度カウンセラーが精神分析的な事も行っていくのであろうが、目的は「治療」だから、私が何処かで勝手に納得した段階で、このカウンセリングは終了するものと思われる。

その事を了承した私は、眼鏡を外して机に置き、目を瞑り、腕を組みながら勝手に話を展開した。
話は、記憶に新しい、先日見ていた放送大学の講義の内容についてだった。
「経済学とは哲学なり」と言う事、そして、「今私が欲しているものは、経済学である」と言う事、そんな持論を展開して行った。

そんな話の中、カウンセラーは何を連想したのか、「自分が社会に認知されたい。そう言った気持ちがあるのではないでしょうか。そして、その気持ちは金子さんの幼少期に覚えた孤独感とか、そういった経験に根ざしているのではないでしょうか。」と私に問いかけた。

この見解は、私に言わせると、非常に幼稚で見当違いの物であった。
私は、過去の体験など、既に咀嚼している。
端的に今の状況と、私の過去の体験とを結び付けるのは、余りにも単純な発想である。
私が私を認識している領域内では、この様な他人の想像など、児戯に等しい。
私は、過去の鬱憤を晴らす事など、今、一片も考えていない。
私は、元来、物心のついた頃から、「個人と社会の関係はどうあるべきか」という哲学的な問題に興味を抱いており、何気無しに、いつも何処かでそれを感じ続けていた。
そして、今、多くの人生経験を経て、時間に余裕のある生活を送っているものだから、この欲求を満たそうと、思考しているのである。
そう、単純に「欲」に忠実になり、考えているだけなのだ。

この事を私はカウンセラーに伝えた。
果たして、カウンセラーは理解できたのであろうか?

今回のカウンセリングでは、この私の見解や欲求をカウンセラーに伝える事だけに殆どの時間を費やした。

最後のカウンセラーの連想では、それなりに的を得たような答えが返ってきたが、如何せん、カウンセラーが若い事、そして、性差がある事によって、私の話は半分も理解されなかったのではないだろうか。


成る程、この手法は疲れるはずだ。カウンセラーも、カウンセリングを受ける側も。

しかし、私の場合どうであろうか。
今日のところ、自由気ままに持論を展開し、説明しただけなので、疲れなど感じていない。
逆に、人に持論を説明する事によって、自身の考えが整理でき、私にとっては得るもの方が多く、満足感すら覚えている。
尤も、この手法で一番酷な時期が訪れるのは、2〜3ヶ月後らしいので、第一回目から結論付けれる筈は無い。


「私の勝手な妄想を聞かされて、カウンセラーさんはさぞかしお疲れだろう。」
そう思い、机の上においてあった眼鏡をかけてカウンセラーに視線を向けると、その顔は予想外のものだった。
カウンセリングが始まった時、「少し疲れ気味かな」と感じさせるカウンセラーの表情は、意外に満足気に、そして、彼の美貌に磨きを掛けるほど生き生きとした、何とも和やかなものに変わっていたのであった。
「私の妄想に着いて来れたのか?」
私はそう思うと、カウンセラーに抱いていた疑念も少し払拭された。

もしかしたら、このカウンセラーは中々の腕前かもしれない。
私の予想とは裏腹に、カウンセリングが何らかの良い効果をもたらすかもしれない。
しかし、カウンセリングの料金(50分で8千円。それが、1週間に一度。)が、私の経済状況をかなり圧迫する事は、周知の通り。(安くならないものかね〜。)
それでも、こんな「カウンセリングを受ける体験」など、簡単に出来るものではないだろうから、今は自己分析の為の投資と考え、暫くこのカウンセリングに身をゆだねてみようか。


それにしても、このようなカウンセリングが有意義であるとすれば、「お金に余裕のあるものしか受けることが出来ない」と言う今日の状況は、何と社会的に勿体無い事だろう。
(普通、精神病の類になると経済的に困窮するので、カウンセリングなど受ける余裕が無くなる。何か矛盾していないか?)


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