第四章 社会復帰への階段
1.ニート脱却へ
11月4日(水) 23:30頃
【「デパス」から離脱】
今日の診察では、処方箋から「デパス」が消えた。
先々週の土日、殆ど家に籠もってゴロゴロしていた私は、特に「デパス」の必要性を感じる事が無かったから、「デパス」無しで過ごした。
実を言うと、この日から今日まで、1.5週間ぐらいの間、「デパス」をほぼ飲まなくなっていた。
正確に言えば、先週の平日に、1錠か2錠は飲んだ。
土日に「デパス」無しで生活できたから、週が明けても「『デパス』要らないのでは?」と感じていた私は、朝の気付けに飲んでた「デパス」を止めて生活していた。
そして結局、忙しい日の昼に「デパス」を飲んだ日が1日か2日あっただけで、今日まで「デパス」の必要性を殆ど感じずに過ごしてこれた。
だから、今日の診察で主治医にその事を告げ、余っている「デパス」もあるから、処方箋から「デパス」を除いてもらったのだ。
「依存性が高いから、そう簡単に『デパス』は抜けないだろう。」との自身の予測とは裏腹に、何気なく、あまり意識することも無く、「デパス」は私から遠ざかっているらしい。
診察の際、主治医は、「(精神状態が)安定しているのだろう。」と、私に尋ねるように感想を漏らした。
私は、専ら、自身の精神状態について、感想を述べないようにしている。
感想を求められても、曖昧な形の返答になってしまう。
何せ、半年前は、自身で「正常の範疇」と感じて行動していながらも、社会的には「異常」と捉えられていたので、自分の精神状態を述べる事に意味を見出せない。
逆に言えば、「精神状態が安定しているかどうかは、本人では無く、第三者(精神科医など)が客観的に判断する事。」と決め付けているのだ。
【個と集団(トポロジーとカウンセリングへのアプローチ)】
それにしても、カウンセリングの対応には悩まされる。
カウンセラーの都合で、先週と今週は、カウンセリングがお休み。
私に対して行われているカウンセリング技法は、頻繁に行うことが通例とされているものだから、「おいおい、2週間も間隔空けて良いのか!?」と言う思いもあるのだが、それとは別に、
「(このカウンセリングの)論理」(「理屈」と言った方が適当だろうか)が分からないので、ちょっと戸惑っている。
前回(10月23日に実施)のカウンセリング内容について、このホームページ上に記していないようなので、簡単に説明しておく。
始まって、25分間、沈黙だった。
始まると同時に、カウンセラーは「何か思いついた事があったら言って下さい」と、私に何か喋らせようとした。
しかし、「何か言ってと言われても・・・」と感じた私は、徐に眼鏡を外し目を瞑った。
何も言葉を発する気にはならなく、廊下を行き交う人々の足音や窓から入る外の雑音、そうした耳から入る情報で気を紛らわせていた。
5分ぐらい経った頃だろうか、カウンセラーは小声で、「思いついた事があったら言ってみて下さい」と介入を試みた。
私はそれも無視し、相変わらず耳からの情報でゆっくりとしていた。
決して眠ることは出来なく、あれこれ考えていた私の頭に、「そろそろ、25分くらい経ったのではないか?」との閃きが起こった。
それを確かめずに居られなかった私は、直ぐに目を開け、眼鏡をかけて、机の上のいつもの場所においてある時計を確認した。
時刻はズバリ11:25。
始まってから、25分である。
「私って凄い!」なんて思いながら、漸く動き出した私の動作を皮切りに、カウンセラーは積極的に介入を試みた。
「何を考えていたんですか?」とカウンセラーは私に問う。
私は、「別に大した事は考えてませんでした。ただ、色々な音に気を紛らわせていただけです。」と答え、カウンセラーの思惑通りであろう、会話は進行して行った。
ただ、それから残り25分間の会話の内容は、具体的に覚えていない。
大した話をした記憶は無い。
私の思いを解釈したがるような質問を投げかけるカウンセラーに対し、「それは違う」という旨の事を、私はカウンセラーに説明していただけだったように覚えている。
こんな状態で前回のカウンセリングを終えたものだから、来週の金曜日に行われるだろう次回のカウンセリングを、どうこなそうか考えてしまう。
また「だんまり」をするのも、つまらない。
「どうせなら、カウンセラーの思考を洞察したいものだ。」
最近は、機会があるとこんな事を考えている。
そんな状況の私に、今日は「放送大学」から良い贈り物があった。
今日見た幾つかの講義により、私は、私が興味を抱いている学問の方向性を見出すことが出来た。
唐突だが、次の表を示す。
| ミクロ経済学 |
個を明らかにしようとする心理学 |
古典的科学 |
| マクロ経済学 |
計量心理学 |
トポロジーの科学 |
上記表の上下は、対義語的なもの。
「ミクロ経済学」と「マクロ経済学」については、特に解説する必要も無いだろう。一般的に使われている意味として捉えてもらって差し支えない。
私が勝手に解釈している、定義付けている他の用語について、以下に解説する。
心理学の歴史的な位置付けを知らないので勝手に「個を明らかにしようとする心理学」としたが、私が意図するものは、「個人の性格」を求めるような心理学(そういった物が存在するかどうかは分からない)である。
それと相対するものとして、「計量心理学」を挙げたが、これは正確ではないかもしれない。(恐らく、心理学の分類として、正確な位置付けではないだろう。もっと良い分類方法はあるのだろうが、何せ無学なもので・・・。)直感的に「計量心理学」では、人の一般的な行動傾向や、環境要因に関係の無い反射的反応が示せるのだろうと感じている。この様な、個に要因を求めるのでは無い心理学を、私はここに位置付ける。
そして、「古典的科学」と言うのは、例えば、アルキメデスの原理やピタゴラスの定理、ニュートンの力学やアインシュタインの相対性理論の様に、原理や原則を定め証明する様なもの。
それに対する「トポロジーの科学」と言うのは、一つ一つの細かい原理や原則を飛び越え、昨今の技術進歩で実際に色々と見えてきたものを利用し、全体的視点で論ずるもの。
同じようなものを、もっと簡単な言葉で示すと次のような表になる。
| 狭義 |
国民 |
木 |
音 |
・・・ |
| 広義 |
国家 |
森 |
音楽 |
・・・ |
で、私が興味・関心を抱いている学問が、下の行の物だと分かった。
そして、上と下の行が繋がる、一種のパラドックスの様な現象。
例えば、経済学で言うと、ミクロ経済を如何に考えて突き詰めてみても、何れは外部要因となるものの存在、つまり、マクロ経済的思考を求めなくては、実践的に成らない様なところ。
この区分けで捉えると、何だか今私が悩まされているカウンセリングに応用が出来そうな気がしてきた。
私が受けているカウンセリングは、前にも書いたが、「精神分析的心理療法」と言うもので、カウンセラーは、「臨床心理士」。
「精神分析」とは、個の精神構造を明らかにしようとするものではないだろうか。
そして、「臨床」と言う言葉のは、今日の心理学の祖と言って問題ないであろう、S.フロイトさんに由来するらしい。
私は、S.フロイトの考えには、正直なところ頷けない。(尤も、ちゃんとS.フロイトの学論を知っている訳ではないので、こんな事言える立場でもないが・・・。)
何とも根拠が曖昧で、空想の域を出ていないように感じているから。
もし、私の受けているカウンセリングが、先に示した表の上の行の姿勢であるなら、私が勝手に解釈しているS.フロイトの学論を踏襲しているものであるなら、この「カウンセリング」は無益と思う。少なくても、弁護士並みに高い料金を払ってまで受ける代物では無い。
私が心理学を「学問の域に達していない」と思っているくらい信用していないのは、この個人の内面を特定しようとする、全く持って無謀な試みに迫ろうとしているスタンスを感じているからである。
ドラえもんが出しそうな道具で、「人の心覗き見顕微鏡」みたいな物が無ければ、幾らなんでも人の内面などには迫れる筈は無い。
人の心は、或いは、「脳の具体的な構造と働き」と言っても良いのかもしれないそれは、複雑すぎて、また、今の技術では観察できない領域にあるから、証明が不可能だ。
そこで、私が方向性を見出しているのは、「個の内面に迫るのではない心理学」。
何やら、「トポロジー心理学」と言うものがあって、「ゲシュタルト心理学」と言うものに発展していったらしい。(更に、今日の心理学は、色々と発展しているのだろう・・・。)
同じ心理学でも、私が興味を抱きそうなのは、こっち。
だから、ここら辺を学習しつつ、カウンセリングを受けつつ、
今の日本の臨床心理士がどの様なスタンスでカウンセリングを行っているのか察知して、一人で納得出来れば良いと思っている。
これでやっと、私のカウンセリングに臨む姿勢が出来た!
ちなみに、先に示した表について、
と感じてしまうのは、甚だ行き過ぎだろうか。
私は、女だけれど、このような思考をする時は、「男性的」な部分を多分に使用している気がする。
<前へ> P.125
<次へ>