鬱病生活記

 表紙
 目次
 はじめに
 第一章

 第二章

 第三章

 第四章

 第五章

 第六章

第四章 社会復帰への階段

1.ニート脱却へ

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11月20日(金) 24:00頃

【今日のカウンセリングは私の勝ち!】

今日は、実に良い天気だった。
病院まで自転車で行くのも気分が良かった。

私は、前回カウンセラーに負けた気持ちになったのが悔しくて、「もっと知識をつけよう」と思って、先日、月曜日の会社の帰り道、近くにある古本書店で「精神分析」に関する本を2冊購入し、昨日の夜までに読み終えていた。
まあ、そんな訳でこの所の数日間は専ら読書に時間を費やした。
しかも、古本屋で偶々あっただけのその2冊の本の組み合わせが、本当に勉強になるものであったから、おかげであらぬ問題にも首を突っ込んでしまい、ちょっと悩める状況に陥っているのだが、その点については「私の私の研究」に書いたので省略する。

こうして軽く論理武装した私は、既にカウンセラーに対して投げかける最初の質問を用意していた。

病院に着くと、意外にも今日は時間に余裕があった。
余裕と言っても、たかが5分前に着いただけだが。
しかしその5分間で、私は院内の喫煙所で一服出来た。
そして、暖かいペットボトルのカフェオレを自動販売機で買い、診察室へ向かった。

丁度時間になったらしく、診察室のドアの前まであと数歩と言うところで、カウンセラーが中からドアを開けて顔を出した。
何時もの通り一片の挨拶を交わし、私は診察室へと入る。

前回と同じく、コートと上着を脱いで、傍にある衝立の上に乗せた。
カウンセラーは、私に背を向け「気温は適度ですか」と言いながら、暖房のコントローラの前へ行き尋ねた。
私は、「多分大丈夫ですよ。この感じなら上着を脱いだら丁度良い感じでしょう。」と答え、何時もの椅子に腰掛けようとしたのだが、少し早足で駆け込んできたせいか、立ったまま、まずは先程買ったペットボトルの蓋を開けカフェオレを口にした。
そして、徐に席に座った。
カウンセラーは、前回から移動した、私のちょっと遠い真横に、私と同じ方向を見る形で陣取っている。

私は、カフェオレを飲みつつ呼吸を整えると、早速用意していた質問を投げかけた。
「先生、私は、これから先生に対し、二者択一を迫ります。実は、前回のカウンセリングを受けてから、ちょっと私にも変化があったので、その事を『カウンセリング』と言う形式を無視して、率直に相談してみたいのですよ。先生に選択してもらいたいのは、一つ、このままの手法を今回続けるか、それとも、今回は一時カウンセリングを中断し、私の率直な相談相手として相対するか、その二択を私は先生にに求めます。」
そう言い放つと、カウンセラーは、「前回のカウンセリングを受けて、何か感じる事、否、考える事があったのですか?」と尋ねてきた。
私は、そのカウンセラーの最初の態度に対して、「つまり、先生は最初の選択、今のカウンセリング手法の姿勢で私に臨むという事なのですね。」と言い、率直に、学術的にカウンセラーと意見交換をする事は出来ないと認識し、鞄の中に隠し持っていた「精神分析」に関する本を、カウンセラーに見せる事は無かった。


実は、一昨日の診断の際、主治医に対しては、私が「精神分析」の本を読んでいる事を悟られている。悟られると言うよりは、診察日当日、待合室でその本を読んでいたものだから、呼ばれて直ぐにそれをしまう余裕も無く、本を片手に診察室へ入って単純に気付かれたのだ。
だから主治医は診察室に入って私が腰をかけるや否や、「精神分析学の勉強しているの?」と尋ねたのであった。
私は、「まあ、カウンセリングの場でカウンセラーの方が情報を多く持っていて、私にそんな情報が無いのは『知識格差』の状態であるから、ちょっと癪でしょう。知識を有するカウンセラーに対応するには、私も知識が必要だから、こうして本を読んでいるのです。」と言った。
すると主治医は、「つまり、『論理武装』ね・・・。カウンセラーが信頼できない?」と聞くので、私は「否、カウンセラーは信頼できる『立派な人』だと認識しているけれど、一方は専門化で私は無知でしょう。この様な状況は、冷静に考えれば『いつ騙されてもおかしくない』となるので、念の為、まあ単なる興味本位の部分もありますが、『論理武装』しているのです。実際問題、私の元職業(SE)も、こんな『知識格差』を商売にする仕事ですから、顧客を騙してぼったくっている現場も見てきていますし・・・。」と、正直に答えた。
立場的にそう言わざるを得なかったのか、「自分は違う!」と言いたかったのか、主治医はこう返してきた。
「でも、この業界には、そういう人(ぼったくる人)は少ないよ。」
反射的に言い放った後、少しの間を置き主治医は続けた。
「そう言えば、僕、今度家を建てるから、この前その見積もりをしてもらった時の話だけれど、あれってふざけてるよね。『この土地で、この見積もり!?ふざけんじゃねー』って思って苛々したよ。ああいう業界の人、どんなつもりなんだろうね。」
私は、半ば呆気にとられながら聞いた後、こう返したのであった。
「・・・先生、そんなの当たり前の話じゃないですか。普通ですよ、フツー。売る側の立場としては、高い見積もり出しておいて『はい、その金額でOK』って人には、それだけ高く売るし、『お金無いからもっと安くないと買えない』って人には、それ相応の値段を再提示するし。それが売る側の仕事ですよ。一々そんな事に腹を立てるなんて世間知らずにも程がありますよ。見積もりの段階でお互い交渉をするのが普通ですから、売り手が高い値段を提示してくるのは、変な話ですがマナーみたいな物でしょう。そんな事に一々腹を立てていたのなら・・・。やっぱり、医療業界の現場の人達って、特殊かもしれませんね。確かに、先生の言う通り『ぼったくる』様な発想を持った人、少ないのかもしれません。」
主治医は「お坊ちゃん」の「お馬鹿」らしいけれども、そんなに頭の悪い人では無い。
私の言葉に、素直に「成る程」と耳を傾け納得しているのであった。


一昨日に、診察ほったらかしのそんな会話(いつもこんな感じだけれど)で、主治医は「私が精神分析の勉強をしている事」を認識している。
だから、私はカウンセラーに言った。
「前回のカウンセリングと今回のカウンセリングとの間で、私にどのような変化があったのかは、主治医に聞けば分かります。先生(カウンセラーの事)は、いつでも私にどの様な変化があったか、知ろうと思えば知り得る立場にあります。私はこの場(カウンセリングの場)でどんな変化があったのか言うつもりはありません。最初の二者択一の際、先生はこちらを選んだのですから。」
私の態度は少し意地悪だっただろうか。
まるで、子供の喧嘩の様である。
しかし、これは成り行き上当然出てくる「抵抗」と言う反応の筈だから仕方が無い。

少しの沈黙の後、カウンセラーの応答が無いので私は続けた。
「私のロールシャッハテストの結果、先生知りませんか?あの結果、私、自分で確認してみたいんですよね。良い研究になりそうだから。
私もそんなに意地悪ではない。
カウンセラーに私が行っている事のヒントを与えた。

ここで、カウンセラーは私に釣られたのか、これまでのカウンセリングを通して、この技法が開始されてから始めて、私の言葉に誘導されるように答えた。
「私が、貴女の主治医から話を聞かないのは、診断書やテストの結果等を見ようと思えば何時でも見られるのですがそういう行動をしないのは、その方が貴女に対して良いカウンセリングが出来ると思って、敢えてそういう情報を避けているのです・・・。」

私はここで一矢を報いたのであった。
漸く踊らされていた掌から少しだけはみ出る事に成功したと思った。

つまり、カウンセラーはこう言いたいのだろう、「私は、このカウンセリング技法をより効果的にする為、敢えて他の情報を遮断している。」と。

ちょっとここで解説が必要だろうか。
私が受けているカウンセリングの技法について。
この技法は、「精神分析的心理療法」の「自由連想」と言う方法だ。(これは前にも書いた。)
この技法は、現在の精神分析の世界では親とも呼べるS.フロイトさんが開発した技法。
まあ、私が受けている物は、S.フロイトさんの技法を誰かが勝手に簡易版としてアレンジした様な物だから、正確に言うとS.フロイトさんの開発した物に比べたら本筋から逸脱した「偽物」となるのかもしれない。
兎に角、そんな感じの技法である事は、本で調べてあって、それによると、この「自由連想」をする場合、カウンセラーとクライアント(被カウンセリング者)は、プライベートでのお付き合いを厳格に避けた方が賢明であるようだ。(S.フロイトさんは、プライベート的な付き合いは避けるべきだと主張していたらしいのだけれど、お弟子さんのC.ユングさんは、「プライベートのお付き合いはしても良い。例えそんなお付き合いの中でも、カウンセラーがクライアントを分析して治そうと言う姿勢に変わりが無ければ問題無い。寧ろ分析の場が広がって良い。」みたいな事を主張していたらしい。)
道端ではちあわせてもいけない。
勿論、世間話なんて出来ようも無い。
どうやら、カウンセラーもこの厳格に定められた規則を出来るだけ守ろうとしている、そう私には感じられた。

だから、私は言った。
「先生。先生は、このカウンセリングを行うにあたって1つミスをしましたね。何時だったか、カウンセリングの後にある診察を待合室で待っていた私に、先生は『病院のカード』を受付に出しているかどうか尋ねた時がありましたね。実はあの時、私、ギョッとしたんですよ。いつも、このカウンセリング室で話している時と全然違う態度だったから・・・。」
そういう言葉を投げると、カウンセラーは私に尋ねた。
「その時、どういう風に感じたのですか。」

カウンセラーが問いかける言葉の表面は、この技法である何時もの問いかけと変わりないのであるが、私にはこれまでの「どういう感じでしたか」といった質問と、今回の質問は、全く別の物のように思えた。
そして、素直に私は答えた。
「いやぁ・・・、いつもこのカウンセリング室で話している時の先生の態度とは違って、あの時(待合室で声をかけられた時)は、すごく対外的な感じがしました。よく看護婦さんなんかが患者さんに対応する時のような感じ。敢えて非常に優しく接しようと努めている感じ。正直、あの時は本当に先生が優しく見えて、そのギャップに驚かされたんです。」

するとカウンセラーは、「あの時は、まだカウンセリングの方法が決まる前でしたから・・・。」と答えたのであった。

私は、賺さずカウンセラーに問いかける。
「でも先生、カウンセリングを行う立場とすれば、あの時はカウンセリングの技法が決まっていなかったとしても、『この技法を使う可能性がある』って事を頭に入れて行動する必要があったのではないですか?」
そう言うと同時に、私は横を向き、カウンセラーの様子を窺おうとした。

カウンセラーはそんな私の行動を察知し、「出来ればこちらを向かないで貰えますか。」と言う。
しかし絶好の機会を逃す訳にいかない私は、そのまま、カウンセラーの方を見つめる。
カウンセラーは、「こちらを向かないで下さい。」と言って、カウンセリング状況を書き留める為の物であろうA4サイズの紙で、自分の顔を隠す。
それでも私はカウンセラーの方も向いたまま、「先生、私の後ろに位置を変えた方が良いのではないですか?」と言い、カウンセラーの足が少しだけ動いた事を目撃した。
カウンセラーは、顔を隠したまま、「こっちを向かないで。」とこれまでより強い口調で私に訴えた。

流石に私も意地悪ばかりでは気が引ける。
私は、「あぁ・・・、とうとう命令系になっちゃいましたね。」と勝ち鬨を上げながら、顔を正面に戻した。


5分ぐらいであろうか。
それから暫し「だんまり」状態に居た。
差し詰め、「両者、陣地に引き上げ体勢を立て直し中」との具合だったろう。

しかし、私はこれ以上虐める気分にはならなかった。
私の本分は、何も「カウンセラーを攻める事」では無いのだ。
陣地に戻り、冷静に私はこの戦いの目的を整理した。
私は、私の研究の為、カウンセラーと相対しているつもりであった。

だから、カウンセリングの技法に則って、私は自分自身の思いを探るように話を始めた。
「先生、私がこうしてカウンセリングを受けているのは・・・、何ですかねぇ・・・、そう、私は先生が言った『貴女は人をコントロールする能力が高い』との意見で、始めて自分のその側面を意識したのです。意識してみると、やはり自分でも『そんなところがある』事に気がついて、認めているのです。そう言う先生の発言があったから、私はカウンセリングを受けている・・・。でも先生、私、このカウンセリング止めるかもしれない。お金掛かるし、しかも馬鹿にならない金額でしょう・・・。」

私が、「止めるかもしれない」と言ったのは、このカウンセリングが「役に立たない」もしくは「金額に見合わない」との思いに行き着いたからである。

だが、そんな私の意をまるで介しないような質問が、カウンセラーから出てきた。
「貴女は、このカウンセリングで貴女の『内面』を見るのが怖いのではないのですか?だからカウンセリングを止めると言っているのではないのですか?」

・・・。
何だか変な感じになってきた。
私は、誰が何と言おうと、限りなく忠実に自分の内面を見るべく行動しているつもりだった。
そして、このカウンセリングの技法に則って、ありのまま考えている事を口にしただけであった。
それを、「怖いのでカウンセリングから逃げたい」と解釈しているかの様に思えるカウンセラーは、私の攻めに疲弊していたのか、それとも、そもそも腕が悪いのか。
また、妙に具体的に私に対して「こう感じているから、こう行動しているのではないですか」と言う、一種の暗示をかけるような物言いをカウンセラーがしたのは、この時が始めてであるし、私が即席で身に付けたこのカウンセリング技法から推察しても、納得のいく対応ではない。

即席で身に付けた私の「自由連想」と言う技法で見て、もし、カウンセラーが私をカウンセリングと言う場に踏みとどまらせようと思っているなら、この2人だけで共有している時間をカウンセラーが恋しいと思っているなら、正に「逆転移」状態である。

・・・。
待ってよ、まだ私「転移」すら完全にしていないのに、先に「逆転移」が来てしまったとしたら、「精神分析家」としてやっていけないよ、カウンセラーのお兄さん。

・・・。
私は、カウンセラーの強制のような問いかけに対し、大分戸惑ってしまっていたであろう。
そして、その戸惑いは、カウンセラーも確認しただろう。
しかし、この戸惑いをカウンセラーがどう解釈したかは、全くもって不明である。
もし、私が純粋に「カウンセラーの腕が悪いのではないか?」と疑い戸惑っている様を、カウンセラーが「やはりこの人は自分の『内面』を見るのが怖いのだ」と解釈していようものなら、お金を支払うのは随分と割に合わない事になる。


その後、何だかんだと話はしただろう。
しかし私は、あまり憶えていない、あまり思い出せないのでここに書けない。

時間の50分間が終了し、何時ものようにカウンセラーと会計を済ませる。
会計をしながら、少し会話もしていたような気がする。
最後、挨拶をしてドアから出る時、私は確かにこんな事を言った。
「それでは、また。・・・、『また』と言っても、私来なくなっちゃうかもしれませんよ。カウンセリングは何時でも止めて良い『契約』の筈だし。」
私は純粋に、「私の研究」に対するカウンセリングの効果を求めている。
それが第一だ。

私は受付に凱旋すると、一種の緊張から解き放たれた感もあり、折角持ってきた図書を利用できなかったと言う気持ちもあり、総合案内人とでも言うべき役割である暇そうな「ヤマさん」に声をかけた。
「ヤマさんって、読書好きですか?」
ヤマさんは、「ええ、好きですよ。本読みますよ。」と好都合の答えを返してくれたものだから、私はいそいそと鞄から昨日読み終えたばかりの本を1冊取り出し、「これ、読んでみて下さい。面白いと思いますよ、ヤマさんなら。」と言って、河合隼男氏と南信坊氏による著書を手渡し、一通りその本のあらましを伝えた。
ヤマさんは快諾して、その本を受け取ってくれた。
そんなやり取りの後、ヤマさんは私に尋ねた。
「ところで金子さん、今日のカウンセリングはどうだった?勝ったの?負けたの?」
・・・、鋭い、これが年の功によって磨かれた洞察力なのだろうか。

私は、これまで、ヤマさんに対して、カウンセリングについて「勝った」とか「負けた」とか言うような表現、つまり、「カウンセリング=勝負」みたいな表現をした覚えは無い。

私の態度は、如何にも「今日は勝ったぞ!」みたいな物だったのだろうか。

私はヤマさんに、態と確信を避けるように、それでいて、いともあっさり「カウンセリング=勝負」の感覚を認めつつ答えたのであった。
「う〜ん・・・、今日は、・・・勝った・・・かな。先週、こてんぱにやられましたからね。先週は完敗でしたよ。でも、今日は、う〜ん、勝ったと思いますよ。」


ちなみに、ヤマさんとは、入院中に知り合い、通院するようになってからも、顔を合わせればお互いきちんと認識して挨拶するような間柄である。


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