第四章 社会復帰への階段
2.思想
11月15日(日) 1:00頃
【悩める状態の特効薬】
今日、「揚げ足取り」が流行っている。
「揚げ足取り」が「斬新な批評」として誤解されている。
それと無く、私はこれに気付いていたので、「マスコミ嫌い」になったのだ。
そして、「厭世的」なのかも知れない。
「放送大学」で、「現代の会計」とタイトルのある講義を、私は受けている。
勿論「会計」について学べているのだが、それ以上に大切な事を、私はこの授業で学んでいる。
それは、この講義の先生が教えてくれる「学習」に対する姿勢である。
これは、人間の生きる上での知恵になる。
何かを学ぶにあたって、その物の本質を捉えて、論じなければ成らない。
展開されている学術について論じる際、その根源となっている考え方や目的を理解して、意見しなければならない。
その根源部分を抜きにして、実態(現実の状態)を照らし合わせ、「その学術は間違っている」と言い放つのは、全く見当違いで、単なる「揚げ足取り」に過ぎない。
しかし、この「揚げ足取り」は、その学術が「実態に不適合している」、言い換えると、「現状に対し無力である」可能性を示唆する。
これを、認識しなければ、「揚げ足取り」は単なる現状に対する欲求不満のはけ口でしか成らない。
その学術の目的は全く異なる位置にあるのに、その学術を引っ張り出し揶揄しているだけである。
こんな事を、私は、「現代の会計」の講義を通して明確に認識した。
するとどうだろう。
世の中が少しハッキリと見えてくる。
識者に対してそうでない者が意見する時、大抵が「揚げ足取り」である。
だからと言って、この「揚げ足取り」に価値が無い訳ではない。
この「揚げ足取り」が発生している背景には、識者の学術論が、現実の状態に「不適合」している可能性があるからだ。
その様な状況では、新たな学術論が必要になる。
識者はこれを認め、新たな学術論を見出すべく行動するべきである。
識者でない者は、現状の鬱憤が新たな未知の状況発生(環境変化)である事を認識し、新たな体勢に変化しなければならない。
大抵、人々の悩みは、新たに生じた未知の状況に直面した時に起こる。
これを解決するには、前述の通り、識者は新たな研究を、そうでない者は現実の状況把握を努める必要がある。
識者は、そうでない者に対し、「君達は何も解っていない」と嘆くだけでは仕方が無い。
識者でない者は、感情任せに、「どうにかしろ」と訴えるだけでは仕方が無い。
識者とそうでない者の軋轢を解消するには、お互い「学習」する必要があるのだ。
つまり、人々が悩める状況に陥った時、それを解消するのは、「学習」なのである。
平たく、そして、少々乱暴に言ってしまえば、「お前ら、愚痴を言っている暇があるのなら、勉強しろ!」と成る。
そう、「学習」、「勉強する事」と言うのは、現状打開の特効薬なのだ。
まあ、「勉強しろ」と言っても、現実に勉強できる状態である者は稀だ。
基本に、人は働かなければ食べて行けない。
食べていけなければ、勉強する暇など無い。
そう考えられるかもしれない。
しかし不思議な事に、人には勉強する機会が、運命的に与えられる。
ここで言う「勉強」とは、決して「学校に行く」ような事では無い。
端的に言ってしまえば、「考える事」、それ自体が「勉強」なのである。
よって、誰もが、生きる上で「勉強」する機会に見舞われる。
大抵が「悩める状況」の下で、同時に「勉強する機会」が訪れる。
私は、この「悩む事」と「勉強する事」が、人に運命付けられた物と考える。
生きる上で、各人相当に、この機会に恵まれる。
そして、「悩む事」、「勉強する事」が、量的にある領域に達する事が、死への必須条件の一つであると思う。
さて、冒頭に「今日、『揚げ足取り』が流行っている。」としたが、実は、これは「今日」に限る事では無いだろう。
恐らく、「平和」と言われるような状況下では、ちょっとした問題が発生すると、人は他者への「揚げ足取り」をして一時の精神不安定状態を解消しようとする。
そうして、誰もが「揚げ足取り」ばかりで本質を見ていない間に、問題は放置され肥大化し、「平和」と呼ばれるような状態が失われて行く。
実に皮肉な事だが、私が「学習」すればする程、そう見えて成らない・・・。
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