鬱病生活記

 表紙
 目次
 はじめに
 第一章

 第二章

 第三章

 第四章

 第五章

 第六章

第四章 社会復帰への階段

2.思想

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11月09日(月) 2:10頃

【作文の難しさ】

私は、昔から筆不精だった。
それは今でも然程変わりない。

これだけダラダラとホームページに言葉を綴っているにも拘らず、この様な言い様は、さも不思議であるかもしれない。

だが、私は、作文が億劫で仕方が無い。
それは、伝えたい事が纏まらない故に、起こる気分である。

そう、私は、論文的に作文を捉えているようである。
何かの命題を持ち、それを主張する為に言葉を綴ると考えるから、億劫になるのだ。

私には、「命題」等は見つけられない。
「こうだ」と主張したい事が論理的に纏まっても、次の瞬間、別の側面からの見解が頭を過ぎり、纏まった命題は崩されていく。
どんどん、どんどん、違った見解が過ぎる。
こうして、キーボードを叩いている間も、それは起こる。
だから、何も書けなく、また、何かを書く時には、それを否定している自分の存在を気づかされる。


決まってみるテレビ番組を見た後、つい先程、就寝前の薬を飲んだ。
些か、リラックスしている状態で、今、これを書いている。

私は、作文に対して、甚だ無意味な壁を作っていた事に気づいた。
「命題」や「論点」など、整理されていなくとも、文章は作れる。
私の幼少の頃の教育が間違っていたのであろう。
受験勉強で必要な作文は、専ら論文的技法を要求されるものだった。

「ディベート」なんて事があるのも、高校時代に覚えた。

今から考えると、この「ディベート」なるものは、洗脳教育に近しい。
自分の主張や体験的知識に基づかず、他により操作され置かれた自分の環境で、自分の側の主張を如何に通す事が出来るか、その技術を高めるのが「ディベート」である。
「立場上言えない」そんな感情を持ちながらも、せっせと見せ掛けの自己主張をし、勝つか負けるかを競うのである。
これが、洗脳の序章なのだ。
この考えに犯されれば、後は良い手駒として、何処かの悪徳者に扱われても不思議無い。


私は、漸くこの様な呪縛から離れ、本当に、徒然なるままに、論点も良く分からないような状態で、以降を書き記す。

「テロ」について考えると、どうしても次のような事を、その背景に思い描いてしまう。
幼いが下手に知識を持ち、社会的にも「あいつは頭が良い」なんて評価されている者達が、勘違いし、事を起こし、増長して行く。
日本での学生運動、アメリカでの同じような事。
ろくな経験も無しに、変な知識を付け、精神的に幼稚なまま育つから、先進国ではこうした事が置きやすい。
また、昨今騒がれている、と言うか、アメリカが自業自得の癖に、勝手に騒いでいるテロリスト騒動なんかも、同じ傾向があると思う。
大体、テロリストは、知的な側面を持つ。
高等な学校を卒業している事が多い。
そして、本当に貧しい経験を長年していたものは少ないと思う。
自然に畏敬の念を持つものは、テロには走らない。
何処かでそれを忘れているから、「自分は何かを変えられる」と信じている。
結局、そんな者達は、思い通りに行かないまま、死を迎えるのではないか。
つまり、死ぬ寸前に、自分は無力である事を体験させられる。


さて、態々起動の遅いパソコンを立ち上げてまで書きたかった事は、こんな事ではない。
こんな風に、話が逸れるのも、次々と浮かんでくる、私の思考のせいだ。
だからいつも話が纏まらず、思いを整理できないから、筆不精になるのだ。
ペンを握るまでの間に、キーボードを叩くまでの間に、そして、書いている最中に、書きたいと思っていた事が、コロコロ、コロコロと変わる。
だから文章も纏まりが無くなり、読みづらくなる。


そう、書きたかったまず一点は、世界史の学習の仕方。
私は、高校時代、2年生になる時、世界史を勉強したくって、理系に強い自身の特性を知りながら、文系コースを選んだ。
流石に、自分で選んだ責任感もあり、2年生始めの世界史の偏差値は非常に高かった。
良い教材を選び、既に受験体勢であった私は、学校の小テストに出てくる問題の不備を見つけては、先生に訴えるような事さえしていた。
そんな状態だったから、古代史までしかまだ課題範囲ではない予備校のテストでは、100点にならないと気が済まないような意気込みで望み、その頃の偏差値で言えば、70〜80くらいの結果を残していた。
だが、飽き性である私は、そして、パソコンに例えるとメモリーは多いのだがハードディスクの容量が小さい私は、課題範囲が増えるにつれ、単なる暗記では次第に付いていけなくなり、最終的にセンター試験を受ける頃には、世界史が一番のボトルネックに成る程であった。
つまり、最終的に、世界史が、尤も苦手な科目になっていた。
この所、また勉強を始めるまで、とんと世界史の事など忘れていたに等しい。
私が、高校2年生の初期に励んで覚えていた古代史の範囲まで、今では殆ど覚えていない。

私は、今再び、気の向くまま勉強をしているが、当時の世界史の学習方法が、如何に無益な労力であったか身に染みて分かった。
私は、暗記が苦手だ。
当時の世界史への取り組み方は、暗記以外の他の、何者でもなかった。
こんな学習法では、到底私の身になる物には成らなくて当たり前。
じゃあ、どんな勉強方が良かったのかと言うと、自分の興味のある所から入れば良かったのだ。
紋切り型に古代史、中世史、近代史、現代史と順番に学習するのでは無く、身近な社会問題から学習するべきなのだ。
例えば、それは今で言うと「環境問題」から入って良いだろう。
また、「アフガニスタン」の問題から入っても良いだろう。
どの道、それら学習を進めていくと、自ずと遡って歴史を学んでいく事になる。
しかも、入り口が自分の興味の持つ問題であるから、その学習欲は探究心となり、中々尽きない。
その点、本当に、受験勉強は近道のようで遠回りだった、私にとっては。
勿論、幾らか世界史を勉強していた頃の記憶も、今の学習に役立っている部分はあるが、とても効率的な学習方法とは呼べない。
これは、本来の教育の観点とは逸脱した目的を持った、ただ「大学に入る」と言う名目の為に行われている受験競争の弊害である。
子供の頃は、本当に、読み書き算盤で十分だ。
後は、遊んで、親の手伝いもして、そして、何かについて「知りたい」と思った時に、集中して学習すれば良い。
そうすれば、それは自身の血と成り、肉と成る。
私のような無知で幼稚な大人が居るから、「生涯学習」は必要である。
また、親が、子供に対して、自分の幼少時の失敗、「あれを子供の頃に習っていれば」と言う幻想に取り付かれまま、教育と言う建前の親馬鹿をするから、子供は成長しないのだ。
子供は幾らか放って置いた方が、時には危ない遊びを繰り返しながら、色々と体験的に学習していく。
「赤毛のアン」で、アン・シャーリーが色々と派茶目茶な空想を実現させながら、そして、色々と失敗しながらも成長していくように、本当の大人は、それを見守り、ある時には説教し、ある時には自分も勉強させられながら、子を育てるようにしなければならない。
勿論、これは、放任とは違う。
慣用で、人生の先輩として確固とした態度を持ち、子供に接しなければ成らない。
「ゆとり教育」の理念はここにあったのに、余りにも幼稚な大人と呼ばれる子供の親が多すぎるものだから、この理念は現実に浸透しなく、そして間違った解釈をされ、滅びた。

私は、無益なバラエティ番組や、偏った報道番組なんて見る気が起こらないのは、こういうところに起因する。
資本主義の成れの果て。
社会主義よりは延命したようだが、今、資本主義の弊害が、先進国で蔓延し、世界中に飛び火している。
その裏に、人々の大きな犠牲を孕みながら。

「アフガニスタン」の問題。
私は、数週間前に「放送大学」のたった45分間の授業で、この問題の本質や、歴史的背景を、恐らく尤も客観的な形で認識した。
これまで、社会人として闊歩していた数年間、色々と報道を目にしていた。
マスコミの報道に耳を傾けていた時間を積算すると、かなりのものだろう。
しかし、それはたった45分間の授業で分かるものだったにも拘らず、メジャーな報道では知りえる事が出来なかったのだ。
如何に、マスコミが腐敗しているかを物語っている。
そして、その腐敗の根源には、行き過ぎた資本主義崇拝がある。
マスコミ界で言えば、「視聴率絶対主義」とでも言えるだろうか。

この前の木曜日、会社で、とある小心者の店長が、社長の前で言えない愚痴のように、ある社員に大声で自己主張していた。
「会社は、儲けなきゃ話にならんのだ。どんな方法であれ利益を得るからこそ、みんなに給料が与えられ、食っていける。それは揺るぎの無い事実だ。社長がどんなに言おうと、これだけは間違いない。会社は儲けるために在るのだ。」
相手にさせられていた若い女性社員は、そんなおじさんの愚痴を、ハイハイと流すような感じで、立派に対処していた。
そして、傍で聞いていた私は、「この人に店を持たせて、会社から外した方が良い。」と思った。
あまり、まだ社長とは話す機会が無いので、どの様な人物か計りかねるが、このおじさん店長が社長に対し、この様な鬱憤を持つのであれば、社長は賢明な人かもしれない。
今時、「会社は儲けるもの」と端的に考える資本主義に染まりきった輩は、自分の器の無さを実感するためにも、一人で店を切り盛りし、そして一遍大失敗をし、己の愚かさに気づく経験が必要だと、私は考える。

アメリカの金融危機を目の当たりにしながら、未だに「利益至上主義」を掲げている者は、馬鹿以外の何者でもない。
「企業とは何であるか」、今一度それを考え直しなさい。
実は、アメリカの大企業である幾つかも、日本の伝統的企業観でも、フランスのそれも、ドイツのそれからも、「利益が全て」と考えている首脳陣が大半でない事を、私はこれまた「放送大学」で学んでいる。
ただ、それぞれの国のこれまでの歴史的背景があるから、企業に対する利害関係者として、誰が力を持っているのかという点で違いはある。
それ故に、それぞれの国が違った姿勢のように見える。
でも、理念や理想とする企業のあり方は、何故か同じような所に行き着いている。
確か、ミシュラン社の何代目かの社長が言った言葉だと記憶している。
「社会に還元しない財産は、窃盗だ。」との旨の事を。
無論、理念が尊い物であっても、それをどう実現していくかは、非常に難しいものであるから、どこの会社も理念通り動いている保障は無いが、企業のトップに立つ者が、資本主義の名の下に「利益至上主義」を前面に押し出せば、それは直ぐに、悪魔的存在となるであろう。


私の中に存在する「厭世観」は、生きていく為に論理的に考え「経済的活動をしなければ成らない」と言う呪縛に囚われ、それに従っているから、本当の心に持つデモクラシーの、持つものは持たざるものへ分け与えていくものだと言う理念とが衝突して、発生しているのかもしれない。
私は、それに気が付いた。
もう少し勉強を重ね、私の「理想」が一端確立したならば、私は行動を起こす段階に至らねばならなくなるだろう、運命的に。
その時、その行動の中で、私は死に到達するかもしれないし、まだまだ経験不足で生き永らえるかもしれない。

そんな先の事は、今はまだ放って置こう。
何れ、時期が着たら、私は巻き込まれ、行動せざるを得ない状況に立たされるだろうから。
今は、まだ学習中・・・。
私の前ページの指標が正しければ、私の場合、学習中の間に死は訪れない。
よって、今はゆっくりと将来に向けた充電期間だ。


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