第四章 社会復帰への階段
2.思想
12月13日(日) 23:45頃
【うつ病は甘え】
鬱病は甘えか。
うつは甘えだ。
甘えとは何か。
甘えとは自己愛である。
自己とは何か。
それは己に問え。
何故、うつ病者や、その者を愛する者は、鬱病に親愛的になるのだろう。
今、多くのブログやホームページを使って、うつ病者自身が、また、鬱病者の傍にいる者が、その様子を語る、日本語で。
・・・私も、その中の一人。
そんな私が、私を見つめて語る。
鬱病とされていた、否、今でも社会的には鬱病とされている私は、「うつは甘え」と認める。
私は、単に、私を形作る為、私の中に私を描く為に、このようなホームページを使っている。
私は、他者に「こうでありたい私」を植えつけようとしている。
恐らく、昨今増殖していると言われる神経症を抱えた者達で自らの様子をWEB上に吐露する者達、または、神経症を抱えた愛しい者の様子をWEB上に訴える者達は、自身の中に抱えている人間像を他人に刻み、そこに自己を求めようとしているのだ。
もし、他人に自分の思い描いている人間像を刻む必要が無いのなら、その欲求が無いのなら、何も態々WEB上に公開する必要も無い。
自己を見つめる為に記録するのならば、ワープロで十分である。
ワープロすら面倒であれば、自分の声を録音する方法でも良い。
勿論、近年の情報技術を使わず、日記とする事で実現できる。
まず、この様に語る上で、明確にしておかなければ誤解を招く点がある。
それは、私が言う「神経症」がどの様な物であるか、である。
現在は、鬱病や躁病、躁うつ病、統合失調症、等々、西洋精神医学的に定義され、診断され、色々な病気として分類された者達が居る。
だが、私はこの現象を無視する。
だから、私が指したい者達の症状を、「現代の神経症」と言う言葉でもって表す。
私は「現代の神経症」と見て、その病理の根源に、「自分探し」があると言いたいのであるが、この「現代の神経症」をどの様に定義付けているか、ここで詳細に説明するつもりは無いし、定義できる程、私には臨床経験、人生経験が無い。
だから、簡単なイメージとして捉えてもらう上での説明となってしまう事を了承願う。
私の言う「現代の神経症」とは、典型的・古典的な鬱病や躁病、躁うつ病、統合失調症、自閉症、神経症、ヒステリー、等々ではない症状と位置づける。
また、「現代の神経症」は、病院で診断を下された者だけが含まれると思っていない。
西洋精神医学的に定義された種々の診断基準を無視しているのであるから、これは当然である。
そうなると、診断を下されていない者達の中で、また、診断を下された者達の中にも共通する、「現代の神経症」の症状を示さなければならないだろう。
そこで、上げる症状は、「中毒症」や「依存症」である。
ギャンブル中毒、麻薬中毒、小説中毒、親依存、子供依存、仕事依存、宗教依存、ナショナリズム依存、…、この類の症例は、枚挙に暇が無くなるのでこの辺にする。
自分を見つめられ無いのは、認識していない自分に対する恐怖から来る。
自分の中で意識している以外の自分の存在を否定したいのである。
この為、人は、何かに熱中したり夢中になったりするのである。
何かのストーリーに自分を重ね、枠をつけ、それを演じる事で、自分を揺るぎないものとしようとする。
些か極論ではあるが、「誰かに分かってもらいたい」と言うのは、この恐怖から来る甘えである。
さて、ここまでの話では、私は他人を卑下して、私自身を高揚しているだけの様に見える。
それもまた、事実である。
私は、「私は他者と違う、私は他の者より凄い・優れている」と言うストーリーに私を乗せて、意識している。
だが、この様な意識は、自立して生きる為に必要不可欠な物である。
例えば、私が「私は他者と違う、私は他の者より凄い・優れている」としているストーリーを疑い、掘り下げたとする。
しかし、その先には、また、新たなストーリーを作り出してしまう自分が現れる。
これを私が繰り返し続けると、どうなるのだろうか。
恐らく、本格的に「精神異常者」と周りから認められるようになるだろう。
今はまだ、私は社会的に異端者となっていない。
周りから、「精神異常者」という異端者のレッテルを貼られないように、社会的仮面(ペルソナと言うのだろうか?)をかぶり、生活している。
私は、そんな私を認めている。
そして、私を愛している。
綺麗に言えば、これは自尊心である。
汚く言えば、これは自己陶酔(ナルシズム)である。
ここまでの話に頷いた者がいるとすれば、その者は、「生存の危機」に瀕していない状態であろう。
人も所詮、生命体の一固体であるから、「生存の危機」に瀕している場合、これまで語った様な裕福な思考は、恐らく停止する。
そして、単純に生命維持活動に走る。
そんな極限の危機状態の外に居れば、人は、自己を認める「何か」が必要になる。
つまり、その「何か」が、「中毒症」や「依存症」である。
誤解をしないで欲しい。
私は、「中毒症」や「依存症」が悪いとは、一言も記していない。
寧ろ、これらが「必要だ」とほのめかしている。
「中毒症」や「依存症」と聞いて、これに対し「何か悪いもの」を想像した者は、「中毒症」や「依存症」に対するストーリーを自分の中で描いている者だ。
誤解を覚悟で端的に言ってしまえば、「中毒症」や「依存症」に陥る者は弱い人だ、または、「中毒症」や「依存症」に陥ってはいけない、と言うストーリーで自分を誤魔化している弱い人だ。
私が「自分を誤魔化している弱い人」と評した時に、「そんな事は無い、私はそうは考えていない」と反応した者は、そう言うストーリーを自分の中で描いている者だ。
誤解を覚悟で端的に言ってしまえば、「自分は弱くない」と言うストーリーで自分を誤魔化している弱い人だ。
私は「弱い人は悪い」と一言も記していない。
「弱い人」という言葉に「私は弱くて駄目な奴だ」と反応した者は、そう言うストーリで自分を誤魔化している弱い人だ。
勿論、これも誤解を覚悟で私が端的に言っているだけである。
自分の素を認め、これら誤魔化しを晴らしたところで、一体どの様な意味があるのだろう。
問題はそこである。
私には、まだ解決できていないのだが…。
「この問題を解決しなけばいけない」と私が感じているとすれば、私は、その様なストーリーに捕らわれている弱い人間だ。
何故なら、生きる上で、この様な問題解決は無用であるのだから。
しかし、「問題を解決しなければ」と言うストーリーに、どうも私は捕らわれている様である。
この様に、私は考えてしまっている。
何かのストーリーに、私は、私を誤魔化しているのではないかと考えてしまう。
考える事に私を見出す、そう言うストーリーに、私が捕らわれているのかもしれない。
「そんなストーリーは潰してしまえ!」
恐らく、認知行動療法などと言う治療法を受けると、こう促されるだろう。
しかし、それが出来ないから、それをする事を良しと感じれないから、私は煩悶し、そして、私は私で居られる。
また、そんな自分に酔い、甘えているのだろう。
この様に、私はまだ、辛うじて私の中にストーリーが描かれている事を認識している。
このストーリーが本当に自分でも認識できなくなってしまった時、本格的な、前述の表現を使えば、典型的・古典的な精神分裂でも起こすのであろうか。
人は、現代日本社会の中で自立するには、何らかのストーリーにすがる必要がある。
それで良い。
ただし、私のストーリでは、こう設定されている。
自身のストーリーに酔いしれて、他者のストーリーを破壊しようとする事、他者のストーリーを抹消しようとする事、それは乱暴で行き過ぎである。
他者のストーリーの破壊によって、他者が偶々「新たな自分を発見して目が覚めました」と言ったとしても、それは偶然であるか、他者のお世辞である。
無闇に自分のストーリーを押し付ける事、遊びで他者のストーリーを否定する事、それは、ただ単に自分のストーリーを揺るぎないものと確信しようとする、自己の自惚れである。
私は、この様に理路整然と持つべきストーリーを設定している。
このストーリーを揺ぎ無くしてしまえば、後は簡単な筈だ。
自分は所詮、自分である。
自分は所詮、自分でしかない。
そう認識しながら、自分の出切る事を黙々とこなし、他者のストーリーを認め、時には敬意を払って振舞うだけで良い。
そうした生活をすれば良い。
しかし、私はこのストーリーに酔う事が出来ない。
自身のストーリーを疑う、と言う私のストーリーが、これを容易に認めさせてくれない。
こんな物だから、生き辛いのだろう。
だが、私の持っているこの様な「生き辛さ」の感覚を、多かれ少なかれ、同じ様に捉えている者達が存在しているように見える。
否、殆ど全ての人が、これを無意識で捉えている事だろう。
そして、無意識内だから、この感覚を無視する事が出来る。
または、自身のストーリーで塗りつぶすことが出来る。
反対に、これを意識してしまった者、多少なりともこんな意識の存在を感じ取ってしまった者は、迷宮に迷い込む。
そんな者達が、一種幼いだけのように見える「現代の神経症」の症状を見せるのだ。
意識してしまった為に、自分のストーリーがぼやける。
それを誤魔化す為に、弱い者は、他者への自己投影(他者依存)、物語への自己投影(バーチャル世界依存)、強烈な熱中(積極的中毒)、逃避行動(消極的中毒)を引き起こして、状態を保つ。
そんな誤魔化しのストーリーを上塗りするのだが、それも良し。
社会に迷惑をかけない限り、これらの行動が否定される事は無いだろう。
寧ろ、「文化」なんて言葉で奉られたりもする。
しかし、社会とは、場所により、時代により、変わるものである。
この変わり行く社会の空気感を感じ取って、社会的仮面をかぶれる者達は、例え、内に「現代の神経症」が潜んでいたとしても、それなりにやって行ける事だろう。
そこには、「周りとは違って辛い、でも頑張っている」と言うストーリーを形成する事も出来る。
現に、そうした者達が集団化し、主張し、一種の社会現象を巻き起こす事態も目にする。
一方、起用に社会的仮面をかぶれない者達は、非社会的、或いは、反社会的とされ、上から目線の情けを押し付けられたり、存在を否定されたりするのだろう。
どちらにせよ、こんな状態は、自分と乖離したストーリーに苦しむか、自分のストーリーを余計に描き難くなるだけであろう。
ただ、社会的にどう判断されようと、結局は、多くの人は弱いもので、甘えてしまいがちな存在なのである。
それが、人と言うものである。
そんな人の生態を理解し、人の尊厳を認めるならば、どんな者に対しても、要らぬ恐怖や嫌悪など感じる筈は無いのである。
この様に、私のストーリーは設定されている。
しかしこれまた、人の生態を理解し、人の尊厳を認められない人々が多く居ると認識してしまっている私は、私のストーリーが現実的でない事に怖気づいて、前へ進めないのである。
そう、私は、私のストーリーを描ききれずに、それでもそんな私に甘えているのだ。
そしてこれは、明らかに、古典的・典型的な鬱病では無い。
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