第四章 社会復帰への階段
2.思想
1月3日(日) 20:30頃
【人間社会と言うもの】
お正月だと言うので、アガサ・クリスティ原作のドラマが、テレビで流れていた。
おおよそ、百年前のイギリスも、現在の日本と同じだった。
老人は「最近の若者のやることは…」と嘆き、若者は興味本位の知恵で闊歩する。
階級制度が存在し、それから成る貧富の差がある。
出身地(国)に由来した偏見があり、大衆は無知である。
現在の日本と何ら変わりない。
人々が「社会」を意識するような時、既に「社会」は、このようにある。
多くの者は、まやかしに頼る事で、自己を確立する。
そんなまやかしに惑わされず、澄んだ眼で物事を見つめている者が、「気違い」か「天才」とさて、社会から隔離、抹殺される。
現代は、政治と宗教の分離が当然の事として認知されているが、実際、宗教が政治を動かしている事実には、誰も目を向けない。
そもそも「宗教とは何か」を忠実に考える事が出来ない。
そもそも「政治とは何か」を有意義に考える事が出来ない。
それなのに「政治と宗教は分離する方が正しい」と誰もが疑わない。
テレビで公然と宣伝されている内容は、ほぼ全て宗教を背景にしている。
私から見れば、どう考えたってそんな状況であるのに、多くの者が「そんな馬鹿な…」と呟く。
だから、私はこんな話題を口から出す機会は無い。
私が日々考えている事など、今日の情勢では「へ〜、スゴイね。」と礼儀的にあしらわれ隔離されてしまうか、無視されてしまうだけである。
こんな状況は、私の目には、「まやかし」以外の何物にも映らない。
何の疑問も持たず、分かったようなつもりになって、皆、世を闊歩している。
私は、彼らが何について「分かっている」、「自覚している」のかについて思いを馳せると、茫漠とした虚しさに襲われる。
そして、「いつの社会も、人間社会と言うものはこう有るものなのだ。」と、私は私に言い聞かせる。
人の成長については、S.フロイトを始め、多くの者が研究し、議論している。
だが、そこで主に語られているのは、精々10代までの若年期についてまでである。
人は、それ以降の人生の方が長く、他者にとっても影響力がある筈なのに、20歳以降の人の成長について論ずる者は少ない。
そこで、私は、一般に「思春期」と言われる以降の人の成長に着目する。
なお、「思春期」以前、それまでの成長に関しては、多くの学者達が唱える空想に、おおよそ同意している。
まず、「女」と「男」の違いについて、語らなければならない。
10代の「思春期」と呼ばれるような時期では、既に「女」や「男」と言う概念が多大に影響しているからである。
「思春期」に達するのは、多くの場合、「女」の方が早い。
「男」が、「思春期」を意識するのが、10〜20歳位であるのに対し、「女」は、これを8〜18歳位で成し遂げる。
この点からすれば、「女」は「男」よりも成長が早い。
そして、この「思春期」に生じる様々な思想的葛藤を体験し、人は自己を意識し、「大きな子供期」へと突入するのである。
「大きな子供期」には、仮に装った自己を中心に行動する。
何事も「自分で考え、自分で決めて、自分で実行する」と思い込む。
現在の日本の様に、十二分に成人化期間(生徒や学生としての地位を与えられ、経済的保護下にある状態)が存在する社会では、「大きな子供期」の状態で社会に出る(経済的な自立を目的として行動する)、または、社会に出る事を示唆される。
経済的保護下から追い出される事、または、それを示唆される事によって、人は現実を実感し「大きな子供期」から「大人の蛹期」に移行する。
「自分で考え、自分で決めて、自分で実行する」事柄が、殆ど失敗する事を体験し、一旦、「自分で考え、自分で決めて、自分で実行する」と言う思想から離れる。
この段階が「大人の蛹期」である。
なお、「自分で考え、自分で決めて、自分で実行する」事が現実的に通用する社会や環境であれば、この者は、大変長期の期間「大きな子供期」で停滞する事となる。
「大人の蛹期」には、他者の行動を思慮しながら、しばしば「自分探し」と呼ばれるような行動をする。
また、自分自身の行動や判断に自信を持てなくなっている為、他者に自分を投影して、自己を確立しようとする。
一見、幼い時期に始めて「自分」を認識する時期に似ているが、「大人の蛹期」のそれは、もっと複雑な物である。
ここでまた、「女」と「男」の違いが顕わになる。
「大人の蛹期」に「自己確立」が完了すると、「大人期」へと移行するのだが、「自己確立」の原動力が「女」と「男」で大いに違う。
「大きな子供期」から「大人の蛹期」へ移行する段階に、一種の「自己喪失」を体験するのだが、ここで「男」は芯から自身の感覚を失う。
それ故、「大人の蛹期」から「大人期」へ移行する際の「自己確立」において、社会的役割に縋る。
「男」は、社会の要請に応える事に「自己」を求め、埋める。
対して「女」は、「大人の蛹期」へ移行する際の「自己喪失」によっても、芯は失わない。
それ故、微かに残る「何だか分からない自身の感覚」を頼りに、「自己確立」しようとする。
「女」は、自身の感覚と合致する社会的地位を見つけ出し、後付論的に理由を付け、そこに「自己」を投影する。
この様に、「女」と「男」で原動力や過程は違えど、再度、自分で自分を錯誤させて、人は「自己確立」を果たす。
「大人期」では、多くの者が社会的役割を演じ、今日の様な国民国家においては、社会を牽引する最も大きな力として働く。
誰もが、「自分は大人である」と意識し、実際に「大人」のレッテルを貼られ、扱われる。
ここまでの成長を、端的に纏めれば次のようになる。
思春期(8〜20歳頃) … 自信の中で様々な思想的葛藤を体験する時期
|||
<アイデンティティの形成>
↓↓↓
大きな子供期(生徒、学生と扱われる時期) … 自己思想中心で行動する時期
|||
<自己喪失>
↓↓↓
大人の蛹期 … 他者思想に喪失した自己思想を比較する時期
|||
<再自己確立>
↓↓↓
大人期 … 他者思想にも拘らず、其処に自己を確信して行動する時期
これは、飽くまで、現代の日本の様に「先進国」や「豊かな国」等と揶揄される社会環境が背景にあって成立する物である。
しかしながら、「思春期」から「大人期」の発達段階が存在する事は、社会情勢に関係無く共通の事でもある。
なお、「豊かな国」とされない環境では、「思春期」から「大人期」への発達を10代で完了するのが常である。
つまり、「豊かな国」では、「大人期」の者達が社会を構成する主たる要員となる。
けれども、「大人期」とは、決して成熟した人の状態では無い。
私は、「大人期」の後に、「混迷期」を用意している。
そして、「混迷期」の後に、漸く「成人期」を置く。
ここまで、論じた内容には、根拠が無い。それに、多分に論じ足り無い。
論じた内容も、単なる私の経験的、感覚的な物で、それぞれの言葉も私の造語である。
この点、読者は注意されたし。
冷静に、澄んだ目で眺めて頂く事を願う。
<前へ> P.139
<次へ>