第三章 鬱病者としての日々
2.調停待ちの日記
7月24日(金) 18:30頃
【鬱病が増えている本当の理由】
昨晩は、このホームページのSEO対策等をしていたら、3時くらいになってしまった。23時ぐらいから始めていたのだが、熱中すると一通り終わるまで遣り続けてしまう質の私は、夜の薬を飲むのを忘れ、それを続けていた。この時は薬を飲まずにいても、以前、入院していた頃薬を抜いた晩に私を襲った胸の中のドロドロとした流動体は、やってこなかった。「もしかしたら、もう治っていて薬は必要ないんじゃないか。」とも思ったのだが、主治医からも言われていた通り、抗鬱薬を抜くのはまずいので、3時過ぎに薬を飲んで寝る事にした。
まあ、睡眠薬関係は効き難くなっているので、床についても直ぐに眠れるはずも無く、私は自身が作った曲を聴きながら時を過ごし、4時くらいには眠っただろうか。
自分で作った曲を聴いていると、とてもリラックスする。当然、自分好みの物なので、また、作曲段階で何度も聴いている、聴き慣れた曲だと言う事もあって、リラックスするのだ。音楽と言う物は、自分で先が分かる程聴き続ければ、「お気に入り」になってしまう物なのだろう。もちろん、自分の好みに合っていれば最初に聞いた時から「お気に入り」になるのだが、そうでない物でも、何遍も聴いていると気に入ってくるものなのだ。日本の国歌を口ずさんで「やっぱ自国の国歌は良い。」なんて感じるとしたら、正に、それと無く繰り返し聴かされ続け「お気に入り」となった結果なのだと思う。(別に心理学的に裏付けがあって言っているのではなく、私の経験上の勝手な理屈です。)だから、テレビでバンバン流れるJ-POP等は、聞き慣れて「好きだ」と感じる人が多くなり、売れる訳である。ちなみに、十数年前の事だが、とある音楽関係者と話をした時に、「ミリオンヒットがバンバン出る今の音楽業界は、多くの人が同じ物にしか興味を示していないと言う意味であって、文化としての音楽を考えると危機感が募る。」と嘆いていた。(丁度、小室ファミリーが闊歩していた時代だったな。)
さて、今日は金曜日。診察のある日だ。そう考え寝付いたせいか、朝の8時に眼が覚めてしまった。どうも、二度寝をする気にもならず、昨日買ったコロッケ1つ、凍ったバナナ、アイス、を食べて朝食を済ませた。その後、一服しながらテレビのチャンネルを切り替えるも、興味を引く番組は無く、とりあえずBS1に落ち着かせ、床に戻って音楽を聴き始めた。すると、うつらうつらしてきて、再び寝たのだろう。気づくと、11時になっていた。また、起きてタバコを吸い、床に戻って朦朧としていると、13時頃になり、「そろそろ病院に行かなければ。」と思い、床から這い出し、シャワーを浴びた。
窓越しに外を眺めると、ポツリポツリと雨が落ちていた。「まあ、タクシーなので雨が降っていてもあまり関係ないや。」と思いながら、支度をして病院に向かった。
受付に診察券を出し、「X先生は何人待ちですか。」と聞くと、「2人待ってますね。」と答えが返ってきた。時間は、14時を過ぎたところだった。いつもであれば待っている患者が5〜6人は居るだろうし、先週、主治医から「来週はあんまり話出来ないかも。」と聞いていたので、この状況には驚いた。どうやら、雨が影響したらしく、今日は患者が少ないようだ。
まあ、2人と言っても私の主治医は患者の診察に多く時間を使う質だったので、「まだ、十分時間はあるな。」と思って、少し止みかけた雨の様子を確認すると、私は、外の喫煙所に向かった。屋根の無い喫煙所でタバコを吸っていると、急に雨が強くなった。早速、傘をさし、プレハブ小屋の喫煙所に移動した。そこで、一服を再開すると、私が入院していた頃に知り合った、Wさんがやってきた。「お久しぶりですね。」と挨拶を交わすと、どうやらまだ入院中の彼女は、窓から外を眺めていたところ私らしき人物が喫煙所に入ったのを見かけたので、態々話をしにやって来てくれたのであった。色々とお互いの状況を話しながら一服と歓談を終えた頃には、丁度、雨が上がっていた。お互いに「お元気で。」と言って、プレハブの喫煙所を出て、私は院内の待合室に戻った。
「さて、待ち人は2人との事だったので、そろそろ呼ばれるかもしれない。」と思いながら、待合室に居たが、結局、結構待たされて、診察室に入る頃には、15時半になっていた。
診察室に入ると、何時ものように主治医は、「調子はどうですか?」と訊ねる。私は「まあ、何も変わり無いですけど。」と答えると、主治医も「まあ、先週会ったばっかりだだからね、そうだろう。」と笑顔で答えた。私は、「ここ何日かで音楽を一曲作ったんですよ。」と報告すると、同じ様に趣味が音楽である主治医は「へ〜、聞いてみたいな。」等と言って、お互い、医者と患者の関係を無視した話題で盛り上がった。私は、勿論、作った曲を他人に拝聴して欲しかったので、「メールでMP3のファイル送りましょうか?」と問いかけると、「医者が患者に個人情報を教えられないんだよね。」と主治医はもどかしさと共に答えた。
そんな、病気とは関係の無い歓談で十数分間は費やした後、私は、漸く本題について尋ねた。
「私は『鬱病』だったんですか。入院中に薬を抜いた時は、胸の中に酷い苦しみを覚えたりしていましたが。」と訊ねると、主治医は「たぶん、違うと思う。何か、治りが早すぎるからね。」と答えた。続けて私は、「じゃあアスペルガーでしょうか。」と訊ねると、主治医は「いや、今日話した感じでは、とてもアスペルガーとは言えないね。」と返した。私は、「自分でも感じているんですけど、結局、『単なる甘え』や『精神的な弱さ』だっただけなんじゃないでしょうか。」と聞くと、「う〜ん、『甘え』かどうかは、人の心の中の事だから他人じゃ判断できない。まあ、ここに来ているくらいだから精神的には強い方じゃないんでしょうね。」と主治医は率直に答えた。そして、「本来の『鬱病』っていうのは、何の脈絡も無く、突然症状が出るものなんだよ。そして、薬を投与すれば、直ぐに症状が改善するものなんだ。まあ、実際、私も『鬱病』と診断を下して接してきた患者は何人もいるんだけど、その中でも本来の『鬱病』の人は殆んど居ない。」と主治医は加えた。私は、「そうなんですか。つまり、真正の『鬱病』は、何故か突然脳内のセロトニンが出なくなり、薬でそれが改善されるから単純に治ると言う事ですか。」と感想を漏らした後、
「では良く巷で聞く、『仕事が非常にストレスになって鬱病になった』とか言うあれは何なんですか?」と訊ねると、主治医は「本来そう言うのは、『適応障害』って言うんだよ。」と教えてくれた。私は、「成程、あのアメリカ由来の鬱病の診断基準が、鬱病者を増やしているんですね。」と感想めいた事を呟くと、主治医も「そう、DMSね。あの基準で測ったら、私だって鬱病と呼べるような時は良くあるよ。」と言った。
どうやら、現代がストレス社会で『鬱病者』が増えている訳では無いらしい。
『鬱病』の診断基準が確立された為、そして、その基準があまりにも甘い物である為、それに当てはまる者を医師が『鬱病』という枠でくくるようにり、『鬱病者』が増えているように見えているだけなのようだ。
主治医も、「あのような診断基準が確立されたことで、単に『鬱病』が流行っているように見えるだけだと思う。」との見解。私は、何の遠慮も無く「あの甘い診断基準は、医者の金儲けの為に採用されたんでしょうね。」と零すと、「それもあるだろうね。」と主治医は言った。
私は、とても恵まれている。いい加減なところはあるものの、この様に率直に意見をくれる人間が主治医であった事に。
こうして、この日は、患者も少なく多少時間に余裕のあった主治医と有意義な時間を過ごし、診察を終えた。
受付で支払いを終え、薬局で薬を貰い、タクシーでマンション最寄りのスーパーに行くまでの間、私は、悶々と考えていた。
「どうやら、私は『鬱病』では無いな。大量服薬後から入院し始めの頃は、それに近い物はあったかもしれない。でも、今現在は違うであろう。これは、私の心の問題だ。『鬱病』と言う枠にはめて考えると間違った方向に行く。さて、これからどう行動するか・・・。」
この煩悶には、まだ答えなど出てい無い。とりあえず、スーパーで何時ものメニューの買い物をしてマンションに戻り、それを片付けた後、『デパス』を飲んで、早速、これを書いている。
夏目漱石の『こころ』という作品で登場する『先生』と呼ばれる人物について。
『先生』は、「この位私の父から信用されたり、褒められたりしていた叔父を、私はどうして疑う事が出来るでしょう。」、と言っているように叔父を信頼していた。幼少時に両親が亡くなった後、叔父に育てられる事になったのだが、「一口でいうと、叔父は私の財産を誤魔化したのです。」と、信頼していた叔父に欺かれていた事に気付き、こうした経験を経て、「私の気分は国を立つ時既に
厭世的になっていました。他(ひと)は頼りにならないものだという観念が、その時骨の中まで染み込んでしまったように思われたのです。私は私の敵視する叔父だの叔母だの、その他の親戚だのを、あたかも人類の代表者の如く考え出しました。汽車へ乗ってさえ隣のものの様子を、それとなく注意し始めました。たまに向うから話し掛けられでもすると、猶の事警戒を加えたくなりました。
私の心は沈鬱でした。鉛を呑んだように重苦しくなる事が時々ありました。それでいて私の神経は、今云った如くに鋭どく尖ってしまったのです。」というような状態になる。
私は入院中に薬を飲まずに苦しんだ時、私の苦しい様を、『どす黒く汚れた血のような流動体が、胸の中を蠢いている。』と書いた。私は、『こころ』を読んでいた時、『鉛を呑んだように重苦しくなる』と言う状態が、私のそれと重なって見えた。そして、私はかなり昔から厭世的である。
ちなみに、『こころ』の『先生』は、「世間はどうあろうともこの己は立派な人間だという信念が何処かにあったのです。それがKのために見事に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。他(ひと)に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。」と言う事で、死を望みつつ生きながら、良い機会を選び死を決意するに至る。
私には、今後、どの様な出来事に巡り合い、どの様な考えを持つに至るのであろうか・・・。
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