第三章 鬱病者としての日々
2.調停待ちの日記
8月2日(日) 22:00頃
【他人は所詮、他(ほか)である】
今日は無事に「鬱病者の社会復帰」をテーマとした講演会に行く事が出来た。
寝る前の、今朝の5時頃に、会場までのルートや時間を調べると、10時頃に起きて、11時頃にここを出発すれば、充分に余裕を持って到着できる事を確認した。その後、大して持って行くものなど無いのだが、それらを準備し、目覚まし時計を10時にセットして、今朝は6時頃に眠った。
流石に、4時間の睡眠時間では私に足りなかったらしく、10時に目覚まし時計が鳴り一旦目を覚ますも、目覚まし時計の音を止めて、再び眠ってしまった。次に気が付いたのは、11時ちょっと前頃。慌てて起きたものの、支度を整え、11時半頃に出発する事が出来たので、会場には遅れることなく着いた。
さて、講演会の内容だが、予想通り、直接的に私の行動に反映される様な話では無かった。けれども、“うつ”と言う物に対して、色々と情報を得る事が出来たので、講演会自体には、充分満足する事が出来た。講演会は、3時間ぐらいのものだったが、内容が充実していたので、あっという間に終わってしまった様な感じだ。
ここで得た情報については、追々、このサイト上で書くことになると思う。
今日は、遠出をしたせいもあり疲れたので、日記の内容は短くさせて貰う。
しかし、忘れる前に下記についてだけ書いておこう。
人とは、下手に“思いやり”があるから厄介な代物なのだ。他人の事を自分と重ね合わせ、思いやる。それ自体は、別に悪い事でも無いし、寧ろ良い事なのだろう。戦争だって無くなって、人間同士が殺し合わなくなる、憎しみ合わなくなる、それに越した事は無い。だが、
自分を蔑ろにしてまで他人の事を“思いやる”のはどうかと、最近、甚だ疑問なのだ。
今は、他人の事を、文字通り、『他(ほか)の人(ひと)』と言う。ところが、夏目漱石の『こころ』の小説では、他人の事を『他』と書いて、『ひと』と読ませている。これは、大正初期の作品だったと思うが、その時代は、この様な活用をしていたのだろう。
そう、自分以外の物は、所詮、『他(ほか)』なのである。例え、それが人間であろうと、動物であろうと、岩であろうと、自分以外の物なので、『他』と言える。
下手に相手が人間だからと言って、理解しようとしても出来るものでは無い。自分の体験や知識で相手を推し量ったところで、どこまで理解できるであろうか。まあ、完全に理解する事など到底無理な事は明らかだ。だから、自分は自分でしか無く、それ以外の物は、他の者(物)でしか無い。
「ああ、あの人は、あんな感じなんだ。」と、呆気らかんと他人を捉えられる様にならなければ、自分は、自分ではなくなる。自分を見失う。
親、兄弟、友人、恋人、それは他人と呼べない親しい間柄もあるだろう。しかし、多少共感する事はあっても、所詮、自分では無い『他(ほか)』の存在なのである。それは、紛れも無い事実。
下手に思いやって御覧なさい。到底理解できない代物である他人を、自分と同化させて見てしまえば、今度は自分が何者なのか分からなくなる。「クジラは、高い知能を持っている動物だから、仲良くすべきだ。食べるなんて人道的では無い。」と言う人達や、「犬は、非常に人の為に尽くしてくれるし、何と言っても可愛い。えっ、中国人は犬を食べるの!信じられない。」と言う人達は、何だか行き過ぎていると感じませんか。少なくとも私の目には、こんな事を言う人達が、自分自身を勘違いしている、自分と他とをきちんと区別できない他(ひと)に映る。
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